ロータリーエンジンの開発

挫折そして意地
Last Updated on June 11,1996


ここに掲載する写真は "The Rotary Graffiti 1967-1987" のものです。
文書は山本健一氏、執筆のものです。


適材適所という言葉が有る。何人もその人に最もふさわしい仕事や場を与えられて始めてその能力を最大限に発揮し得ると言う様な意味であろう。同じ様に技術にもそれが有る。その意味ではロータリーエンジンは必ずしもそうではない舞台に無理矢理引き上げられた所があった。

初のロータリーエンジン搭載車コスモは、ロータリーエンジンの特性を最も発揮し易いコンセプトとなっていた。しかしそのデビューがあまりにもドラマチックでセンセーショナルあったが故に、誇張された論議が行われた。
レシプロかロータリーかの二者択一論である。

私はロータリーエンジンはこの二者択一をもたらす程絶対的なものとは思わない。生産設備・販売・サービスのありとあらゆるシステムを一夜にしてひっくり返す程の完璧な力を持った自動車エンジンとは言っていないのだ。トランジスタや ICが真空管に取ってかわった様な革命では決してあり得ないのだ。

技術には必ず長所と短所がある。その長所に惚れ込んだ人達によって、その長所がどんどん拡大され、短所が改善されていく。ロータリーエンジンの長所は排ガスでもなければ燃費でもない、本来の長所はコンパクトなサイズと軽量さ、更にバイブレーションの少ない滑らかな回転なのである。
この長所を生かしてこそ初めてロータリーエンジンは浮かばれる。All or nothingではない。初代コスモで見せた様な車トータルで考えたロータリーエンジン、ロータリーエンジンならでは出来ぬディスティンクティブ(独特)な車を提供すべきであると考えていた。苦難の時期にも、外の支援者からの激励は絶えることはなかった。この人達に応える為にもその様なものを提供したかった。

しかし私のこの思いとは裏腹に事態は悪い方へと動いていった。第一次のエネルギー危機と共に、それまで順調であり我社のドル箱となってきたロータリーエンジン搭載事が、ガスガズラーの烙印と共にさっばり売れなくなってしまったのだ。
在庫車はたまる一方、そして悪いことには乱売せざるを得ない状態に陥ったためサービス体制が追いつかずますます窮地に追込まれることになる。レシプロエンジンなら長い歴史がある、少々の修理なら町の修理屋ででも簡単にやってくれる。しかしロータリーエンジンの様な新しいものは、販売やサービスが一体となって初めて、その真価を発揮するものである。

このバランスが、エネルギー危機と共にくずれていったわけである。もはや技術者の力だけではどうしようも出来ない。ましてやこの経営危機の時に、いくらロータリーエンジンにふさわしいからと言って莫大な投資を必要とするニューコンセプトの事なんて考えられない。私は自分の提案が正しいと信じながらも、一方でまた、会社の置かれている状況もよく理解できた。何かむなしいものを感じた。私は、かって味わった事のない、また有ってはいけない挫折感を感じていた。

一方で第三の難関、燃費改善に対する挑戦は続けられていた。「フェニックス計画」は着々と進みつつあった。私はこの挫折感を部員には決して気取られまいと思った。「技術で叩かれたものは技術で返せ」がその頃の研究部の合言葉になっていた。
ロータリーエンジンの開発当初、私はまさにプレイング・マネジャーであった。ありとあらゆるアイデアにクビを突っ込み、またその進捗経過、そして成果に口をはさんだ。「フェニックス計画」が進んだ頃、研究部の所帯も大きくなっていた。その代わりに、私の意志を心底分かってくれている多くの技術者達が育っていた。彼等は自分達のほれぬいた対象に心底打ち込んでくれていた。挑戦というより意地であった。

エンジンの基本であるガスシール性能の改善には数々の新しいアイデアが出た。また、燃焼改善の為のスパークプラグの位置や、ロータのリセス形状の工夫がなされた。吸気ポートの改良もなされた。さらに特筆すべきはそれまで過濃混合気でしか反応しなかったサーマルリアクターを、より薄い混合気でも反応させることに成功したことである。サーマルリアクターの反応はその入口のガス温度によって左右される、従ってエンジンの排気孔周辺を改善したがそれでは不十分だった。

サーマルリアクターの反応には必ず 2次空気が必要となる。つまり酸素が必要なわけであるが、せっかく断熱して上昇させた温度がこの 2次空気によって冷やされてしまう。そこでサーマルリアクターから出た熱を利用して積極的にこの 2次空気を温めてやり、逆に反応を助けてやろうというアイデアである。この装置は熱交機器と呼ばれた。この熱交機器のアイデアが出た時、それを担当する技術者が自分の家の台所でガスレンジと場沸器を使って実験して、自宅の台所をメチヤメチヤにしてしまったというエピソードがある。奥さんから、「うちの主人は頭が変になったのと違いますか。」などと電話がかかってきた。

この熱交機器によって、それまでの燃費は一気に 40%まで改善していた。そんなある日、経営陣の前に私は呼ばれた。「えっ本当にやっていいんですね!本当にロータリーエンジン専用車を造らせてくれるんですね」多分私の目は血走っていたと思う。私の提案、つまりロータリーエンジンにふさわしいニューコンセプトカーに GO! がかかったのは我々がほぼ燃費 40%改善の目標を立てかけたころであった。

そのプロジェクトはコードネームを、X605と呼ばれた。技術者達は燃えた。右にかじりついてでもと頑張ってきた甲斐があった。燃費改善と併行して数々の信頼性、サービス上の改善がなされた。中には、サイドハウジングの様な大きくて、しかも非常に厳しい平面度を要求されるものに、当時では不可能といわれたガス軟窒化処理を成功させるという技術まであった。オイル消費問題に終止符を打つことが出来た技術である。

技術者達はそれまでのうっ積をはらすかの様に、ありとあらゆる技術をこの X605 と呼ばれるプロジ工クトに傾注して行った。ロータリーエンジンのコンパクトさと軽量さを生かして、フロントミッドシップを実現し、それによって低いボンネットラインとすぐれた空力持性を持ったユニークなスタイルと理想的な前後輪の重量配分、それがこの X605 のコンセプトであった。
その為にはエンジン自身の改良だけではなく、レイアウトも含めて車トータルとしての改善工夫が必要であった。誰も出来ません。無理ですとは言わなかった。

X605 は RX-7と名を変えて、発表された。1978年 4月の事である。



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