「今後はロータリーエンジン一本でやってもらう。しっかり見て来て欲しい。」
当時、設計部の次長であった私に、今は亡き松田恒次社長より西ドイツ NSU社出張の声が掛かった。
昭和 37年 8月のことである。
ロータリエンジンの開発委員会に名を連ね、半ばオブザーバー的な存在で身を埋め、確かに高速高馬力のすばらしさは認められるが、低回転におけるじゃじゃ馬のような振動、白煙をもうもうとあげ常識はずれのオイル消費、チャタマークによってハウジング内面のメッキが剥離して傷だらけになり耐久性どころではない、といった欠点だらけのこのエンジンの素性を知りつくしていた私は、一瞬複雑な気持ちにおそわれた。
以来 10数年間、文字通りライフワークとして覚悟したロータリーエンジンの開発に、のめり込んで行くことになる。
未知のものへの挑戦、苦しみと挫折感にさいなまれながら、エンジニアとしての信念と意地を糧に、不安と闘いながら未踏の世界へと踏み込んで行った私の気持ちは、今なお鮮明に思い起こされるものの、どの様に言い表わしてよいか言葉もない。
私のまわりには多くの優秀なエンジニア達がいた。
彼らは時には私に共感し、また時には反発し、己が索むる道を探した。
彼らは自分達が取り組むべき対象、つまりロータリーエンジンに心底ほれぬいていたと私は思う。
いや、ほれぬいていたからこそ世の中の常識人から「実用不可能」とまで言われたエンジンの開発に、文字通り寝食を忘れ打ち込んで来れたのだと私は思う。
私は多くの若きエンジニア達のすばらしいアイデアと熱意に助けられてきた。
そこには夢があった。
何が何でもそれを自分達の手で実現しようとするエンジニア達の執念にも似た夢があった。
今にして思えば、それは一つのドラマである。苦しいがそれを克服し、己が生きる道をきわめようとする人間のドラマである。
燃える集団、人生意気に感ずる人達、そのような人々がいなければ決してロータリーエンジンは完成できなかったであろう。
私がロータリーエンジンに燃えた時代よりかなりの年月がたった。
しかし今なお、あのロータリーエンジン開発の第一線にあって、何事に対しても挑戦的で好奇心に燃えたあの時を忘れることはできない。
常に自分にとって価値あるものを索めていく、毎日毎日が生きがいのあの時を忘れることができない。
まさにこれが技術者魂、創造の原点であると思う。