ロータリーエンジンの開発

決断の時
Last Updated on April 14,1996


ここに掲載する写真は "The Rotary Graffiti 1967-1987" のものです。
文書は山本健一氏、執筆のものです。


人間誰しも長い一生の内には、自分の運命を左右してしまう様な決断を一度や二度はせまられるものである。
NSU社訪問より帰国した私を待っていたのは、ロータリーエンジンの実用化と言う至上命令であった。
人も組織もまかせるから研究部の構想をねってみよと言う、いわば最終宣告であった。

私と内燃機関との出合いは確か昭和 23年だったと思う。空冷単気筒側弁式のエンジンであった。
当時は側弁式のエンジンが主流であり、勿論当社も側弁式単気筒しか経験がなかった。

私がエンジンの設計に携わってから約 1年くらい経った頃、当時の技術担当常務であった村尾時之肋氏の発意で頭上弁(OHV〜オーバーヘッドバルブ)空冷2気筒の計画が始まった。当時としては業界をリードする画期的なものであった。

次いで昭和 27〜28年頃にかけてオーバーヘッドカムシャフト(OHC)エンジンの開発へと意欲を燃やした。
現在の往復運動式ピストンエンジンの主流をなす原形が出来上がった訳である。

この様にして次々と新しい内燃機関の設計開発へと取り組んで来たわけであるが、その間多くの失敗と経験を重ね、またそれ等を糧として次の新しい発想へと挑戦して来た私は、エンジンは「生きもの」でありデリケートな機械であることを身を持って痛感していた。

「世界中のエンジニアの挑戦を受けながら、いまだにその実用化を拒みつづけているロータリーエンジン。本家の NSU社ですら難問をかかえているこのエンジンを、はたして自分の力でモノに出来るだろうか。」
四十歳になって未知の世界に足を踏み入れる不安。

会社のそれに賭ける熱意が痛い程感じられるだけに、その期待を裏切る様なことになりはしないかという不安。これは単なる研究ではない、商品として売れるようなもの、それも従来の往復運動式ピストンエンジンとは「一味違った何か」を持つものを造り出さねばならない。
未知のものへの挑戦である。

往復運動式ピストンエンジンなら外国にアドバイスしたものがあった。世界中のエンジニアが研究している。種々の文献もある。
しかしロータリーエンジンになるとその様子はガラリと変わる。文字通り企業にとっても、私にとっても大きな賭であった。

昭和 38年 4月、ロータリーエンジン研究部が発足した。
部長の私を入れて総勢 47名、部員の顔には不安はなかった。いや、むしろ新しいものへの挑戦に対する意欲が感じられた。

「今日からわれわれ四十七士は、研究室を我が家と思い、ロータリーエンジンが完成するまで、寝ても醒めてもロータリーエンジンのことを考えてほしい。苦しいことも多いだろうが、そのときは赤穂浪士の苦労を思いおこしで・・・・」
たしかこの様な挨拶をしたのを覚えている。そのとき以来「寝ても醒めても」が我々の合言葉になった。

その年の暮、私は社長のお伴をして小旅行に出かけた。
当時、外資自由化を控えて自動車業界再編成の動きがあり、当社は決して予断を許さない条件下にあった。販売店の動揺を鎮め、将来のための協力を要請する必要があった為である。

販売店に対する最大のアピールポイントは、いま取りかかったばかりの、まだどうなるかも判っていない「ロータリーエンジン」であった。
当時、業界や学会では、ロータリーエンジンに対する批判が強く、実用化がいかに不可能であるかという一連のキャンペーンを行なう学者さえいたが、そのロータリーエンジンが彼等に希望を持たせる最大の目玉であったのだ。すべての販売店の従業員は私達を拍手で激励し、将来への希望を私達に託してくれた。

「販売店の人達の前で大見得を切ってしまった以上、後へは引けない、私個人の問題だけでは済まされぬ、会社全体の信用問題にもなってくる。」これはもう、何が何でもモノにしなくてはという思いだった。前進あるのみ。私の脳裏にはフッと若いエンジニア達の顔が浮かんだ。



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