ロータリーエンジンの開発

協力と共感
Last Updated on April 21,1996


ここに掲載する写真は "The Rotary Graffiti 1967-1987" のものです。
文書は山本健一氏、執筆のものです。


自動車ほど裾野の広い産業はないといわれている。ありとあらゆる方面の技術と創意が集約され、自動車というものを形造っている。特にその中でもエンジンは材料技術、生産技術を含めて非常に高度な技術の集積である。

各国で車のコンポーネントだけを専門に設計開発し、製造して商売としている企業は多くあり、現在多様化と国際化の中でのそれ等の地位はますます高まりつつある。
しかしながら、ことエンジンになると自動車会社相手に設計開発から生産までを、それだけで商売している企業はほとんど見受けられない。
つまりエンジン技術イコール自動車会社と言って過言ではない。

しかし、そのエンジンも、それを構成する部品単位になると、非常に多くの専門部品メーカーも社内外の専門分野の人達の協力を得ている。特に専門性を要求されるだけに、どれだけ協力を得られたかによってエンジンの出来、不出来が左右される。

ましてやロータリーエンジンの様な、新しい未知の分野への挑戦には、この専門技術者の協力無くしては、研究部の技術者だけでは到底達成出来ないものである。
従って、社内外を問わず種々の分野の人達の協力が必要な訳であるが問題は何人の人達かではなくて、どの様な人達かである。
社外の部品メーカーにとって、我々がロータリーエンジンを手掛け、何が何でも成功させねばならぬからといって、絶対協力しなければならぬという責任はない。
まして海のものとも山のものともつかぬその様なものに協力すべきかどうかの社内の論議があっても不思議はない。

そこにはその企業トップの理解と、何か企業を越えた技術者としてのイノベーションに対する共感といった様なものがなければならないはずである。さらに専門家としてプロフェッショナルとして「よしオレがやってやろう」という人達でなければ真の協力は出来ぬであろう。

幸いロータリーエンジンは、エンジンのシール類、スパークプラグ、点火系を初めとする電装関係、燃料系、冷却系、はてはエンジンオイルに至るまで多くの社外専門部品メーカーの協力を得た。
中には自ら計測方法やテスターまで考案し、研究部員顔負けの協力を惜しまなかった技術者も居た。

また社内に於いては、ローターハウジングのトロコイド曲面の加工、検査法を始め、その内面のクロームメッキ法の技術確立、ローターやハウジング類の鋳造方案、ローターガスシール溝の特殊な形状の加工法等々、それぞれの専門分野で毎日毎日、執念とも思える様な血みどろな闘いが続けられていった。

私の脳裏には、その一つ一つが今でも鮮明に走馬燈の如くよみがえってくる。今となっては若しかったが充実した思い出の日々である。その中の一つに、初めてロータリーエンジン車を世に送り出すことの出来た最後の鍵となったカーボンアペックシール開発に於ける平塚技師のことを忘れることは出来ない。

前述のクロスホロー型アベックスシールをもってしてもローターハウジングの耐久性はせいぜい5〜6万kmであった。自動車用エンジンとしては不十分である。
これに対して非金属材料も種々開発テストを行った結果、やはりカーボンが良いというデータを早くからつかんでいた。しかし長寿命なものもあれば、短時間で折れたり、ひどいのになると粉々になって排気孔から飛び散ってしまい、あとは影も形もないというものまである。

とてもエンジンのガスシールとして使える様なシロモノではなかった。部員はもとより、社内外各方面の必死の協力でエンジンはどんどん改良が加えられている。他の問題は、解決もしくは解決のメドが立ち、量産化可能一歩手前まで来ている。しかし最後のこの一線が越えられないのだ。
このチヤターマークをつぶさなければ全ての努力が水泡に帰す。焦燥感が私をおそった。

日本カーボンが新幹線のパンタグラフ摺動面に使う新しいカーボンを開発したというニュースが入ったのが昭和 39年の夏であった。
この新カーボン開発に携わった平塚技師という人が奇遇にも「あなたの奥さんのいとこに当たります。」と言うことで、彼を家へ招き一杯飲もうということになった。

私には下心があった。「シールとして耐えられるカーボンを開発しない限りチヤターマークは解決しない。俺のライフワークであるロータリーエンジンを、生かすも殺すもお前さんの腕一本だ。」
まるで脅迫じみた口説きであったが彼は燃えてくれた。
「よし、俺もライフワークとして、そのカーボンをモノにしてみせよう。」技術者と技術者の共感である。

日本カーボンに特別チームが作られ開発は加速した。また工業製品として歩留りを良くするための研究、さらに出来上がったカーボンの中から非破壊で選び出す検査方法の開発。
この様にして我々のロータリーエンジンは十分商品として実用に耐えるものへと近づいていった。自動車用エンジンとしての資格を着々と積み上げていったのである。

昭和 40年の暮、私は実用化できそうだという報告を開発会議に提出した。
ついで、昭和 41年初頭、数十台のプロトタイプ「コスモ」が全国のデディーラーに配られた。
「昭和 42年 5月、初のロータリーエンジン搭載車発売」の大方針が決定したのは、それから間もなくのことであった。



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