ある一つの技術が完成した時、それに対する改良は当然としても通常は、やがて成熟期に入り安定期へと進んで行くものである。
世界初の 2ローターロータリーエンジンが搭載されたコスモスポーツが発売された昭和 42年、当時の社会情勢は高度成長時代であり、国民所得の増加、さらに高速道路の拡大計画がなされていた。世はまさにモータリゼーションの真っただ中にあり、高性能と静粛性をかねそなえたロータリーエンジンは、「ロータリーフィーリング」の名をほしいままに全て順風満帆のごとく思えた。
しかし、生まれたばかりのロータリーエンジンには、すぐ次の第二の難関が待ちうけていた。1968年(昭和 43年)米国では連邦政府による排出ガス規制が始まったが、これはロータリーエンジンの実用化を決して心良しとしなかった人達にとっては、格好の攻撃の材料であった。
「今後排出ガス公害が問題となってくるだろうが、ハイドロカーボン(HC)の多いロータリーエンジンでは、その対策が難しい」とか「HCの多いロータリーエンジンは今後永久にアメリカを走ることはないだろう」つまり、ロータリーエンジンには将来はない、という誹謗と中傷の火の手をあげて来た。
しかし、米国こそパイオニアスピリットをもち新技術に好感を持って迎えてくれる市場、よりモータリゼーションが進んで真にロータリーエンジンの良さを見出してくれる市場、と我々は確信していた。
「実用化不可能」という試練に打ち勝ち、火の粉をくぐって来た技術者達にとって、また自らの手で素性を確かめ、打開の手法を発見し、創り出して行かなければならないエンジンを手がけて来た技術者達にとって、これは逆に発奮の材料でもあった。
HCは多いが NOx が少ないという特性を生かして HCを積極的に燃やすという熱反応器、つまりサーマルリアクターの構想が出来あがった。燃え残りのガソリンである HCを排気管の途中できれいに燃やしてやろうという発想である。このサーマルリアクターを実用化するために、さらにたゆまない開発が続けられ、これまでには例をみない材料面や構造面の開発が行われた。中には耐熱性はすばらしく優れているが、成形の為にプレスするとコナゴナに割れてしまう材料まであった。
その材料のプレスを文字通り寝食を忘れて成功させた若い技術者をして、「オレはガラスでもプレスしてみせる」と豪語させた程であった。
この様にして我々は 1969年(昭和 44年)10月、走ることはないだろうといわれた米国ヘロータリーエンジン搭載車を上陸させることが出来た。
その後国内でも「新宿牛込柳町交差点での排出ガス公害事件」、米国でもロスは泣いている! とマスコミで取り上げられた「ロサンゼルスのスモッグ公害」と排出ガス規制強化の声は日に日に大きくなって行った。
1970年 12月、マスキー上院議員による大気清浄法、つまり世に言う「マスキー法」が連邦議会で可決されたのはあまりに有名な話である。マスキー法1年延期申請に関する EPA公聴会の席で達成可能を表明したのは我社のロータリーエンジンと CVCCを持つホンダだけであった。当時のホンダの CVCCも、やはりエンジンの中と外でサーマルリアクター的反応を起させており、ある意味では非常に良く似たものであったことをつけ加えておきたい。
その後逆に HCへの対策をほどこしたロータリーエンジンは、従来の往復動式ピストンエンジンでは処理が難しい NOxがもともと少ないため、排出ガス浄化に対する優位性を高め 1973年頃までには、「ロータリーは排出ガス対策の本命エンジン」とまで言われる様になったのは何とも皮肉な話である。
しかし、試練はまだ続いた。1973年末に生じた第一次エネルギー危機がそれである。ロータリーエンジンは、第三の難関へと突入することになる。排出ガス規制問題でのロータリーエンジンに対する反感が、再び誹謗の火の手となってあがって来た。
このエネルギー危機を契機としてロータリーエンジンはガスガズラー(ガソリンのガブ飲み車)の汚名まできせられてしまった。思えばエネルギー危機からの 1974〜 1978年の5年間はロータリーエンジンにとって辛くて長い5年間であった。ロータリーエンジン開発の歴史に於いて、その技術の成熟度からみて、エネルギー危機の発生はあまりにも早過ぎたというのが実感である。従来我々の開発は、ロータリーエンジンの持つ生来の性能を引出すことと、自動車用エンジンとしての資格を得るための排出ガス対策に重点志向されていたからである。
私のところへは国内はもとより海外からも、多くのはげましの手紙が寄せられた。中には、ロータリーエンジン改良の提案まで含まれていた。自らの金を未知のエンジンを積んだ事に注ぎ込み、その実生活で得た体験と提案を与えてくれた。我々が未知のものに挑戦する技術者集団、つまりパイオニアであるとするなら、彼等はパイオニア・ユーザー達であろう。新分野に我々と共に挑戦してくれたユーザー達である。私は、内燃機関の革新に興味を抱き期待をよせるこの人々との間に、かつて経験したことのなし人間関係を感じた。これをダメにすると「内燃機関で新しいことをやってはダメ」と烙印を押されることになる。前例とされてしまう。世界中のこれ等の人達の期待を裏切ることになる。また、せっかく努力してくれた若い人達の夢をつぶしてしまうことになる。歴史的な使命感があった。
第一次エネルギー危機が原因となり、急速に悪化した当社の経営環境の中でロータリーエンジンの存続に関する激しい論議が繰り広げられたことは事実である。
当社の経営陣は「ロ−タリーエンジンの存続はメーカーの社会的責任であり、既にロータリー事を愛用していただいている顧客への信義の問題でもある。一日も早く、ガス・ガズラーの汚名を返上しよう」と断を下している。
我々は 1974年燃費改善のための5ケ年計画を立てた。その計画は「フェニックス計画」と呼ばれた。焼かれても、その灰の中から再びよみがえるあの不死鳥の名をとったものである。技術者達の損得を忘れたありとあらゆる挑戦が続けられていった。いつしか彼等の聞から不屈の精神「ロータリースピリット」なる言葉が生まれていた。