ロータリーエンジンの開発

フェニックスはよみがえった
Last Updated on July 1,1996


ここに掲載する写真は "The Rotary Graffiti 1967-1987" のものです。
文書は山本健一氏、執筆のものです。


RX−7は自信作であった。私の、いや技術者達の執念が込められていた、悲願が実を結んだともいえる。
あのいまわしいガスガズラーという汚名も、エンジンの改良と軽快な車体とのトータルで必ず返上出来るという自信があった。しかし、この様にして誕生した RX−7をアメリカという厳しい市場に導入するにあたっては、ただ一つのラストチャンスとして、文字通り生き残りをかけた背水の陣で対応することも必要であった。

技術陣とマーケッティングサイドが一体となった広範囲な市場調査、導入戦略の構築が必要であった。ロータリーエンジンに対するネガティブイメージが定着し、マツダの米国市場に於ける存続にすら疑問が渦巻く当時の市場環境を一気にはね返す為にも、それが不可欠であった。

技術者をまじえた調査メンバーは RX−7の成功を確信して帰国して来た。やがて、従来マツダが実施したことのない程、積極的な市場導入計画が策定され実行に移される。併行してセールスマン教育のプログラムが計画され、ユーザーに再びロータリーエンジンの特長を正しく伝えることが実行されていく。サービス体制に於いてもしかりである。全社が RX−7を一つの頂点として盛り上がってくれた。何が何でもという、あの技術者の思いが全社に通じたのである。

導入プログラムの一貫として 1978年 2月に 2組のジャーナリストグループをアメリカから広島に招聘した時のことである。三次試験場で思う存分 RX-7に試乗してもらうと共に広島本社でこれらの有力ジャーナリスト達と膝を交えたホットなディスカッションが繰り返された。米国のジャーナリストの中には EPAのガスガズラーのレッテルと、米国市場に渦巻いたネガティブイメージにもかかわらず、ロータリーエンジンのメリット、将来を信じてくれている人達が少なくなかった。それだけにあたかも戦後、あのいまわしい原爆の灰の中から不死鳥の如く広島がよみがえったのと同様に、挫折に屈せず全力をふりしぼって再起したマツダに、柏手と声援を送ってくれた。アメリカ人はしっぼを巻いて逃げて行く負け犬には冷淡である反面、アンダードッグ(弱い者いじめに合っている者)が必死になって努力をし、その挫折から立ち上がって行くことに対して、その柏手と声援を惜しまない国民性を有していることも決して無関係ではないのだろう。

私にとって、1978年 5月ラスベガスで行われた、RX−7米国導入に先だっての全米マツダディーラーミーティングは今なお忘れることの出来ない思い出である。第一次エネルギー危機に端を発した米国市場に於けるマツダ車販売の激減は、我が社の将来を確信し、あまつさえロータリーエンジンの将来を信じ、大規模な投資を行って来たマツダディーラーを直撃した。
マツダの将来に見切りをつけ、フランチャイズを放出し他のブランドヘ逃げて行くディーラーも少なくない中でじっと信じて歯をくいしばってくれたマツダディーラーとその奥さん方を招待し、RX−7の導入プレゼンテーションがラスベガス MGMグランドホテルで行われたのである。

真っ暗なステージの上にレーザー光線が交錯し、高まるドラムの音の中、ドライアイスの煙の中にスポットライトを浴びて RX−7が浮かび上がった。その瞬間会場全体は形容の仕難い異常なまでの興奮の坩堝と化した。
会場の出席者は全員椅子の上に立ち上がり、抱き合い、歓声をあげていた。私のまわりの人達の目には大粒の涙があふれ、次々と差し出される握手の強さに私の手は折れそうにすら感じた。

私の脳裏には、あの苦しい時期を共に乗り越えて来たエンジニア達の顔が次々と浮かんだ。「あの連中と何としてでもこの感激の一瞬を分かち合いたい」と思いながら私自身流れる涙をどうしようもなかった。


1978年 5月の市場導入以来、米国市場に於いて RX−7がその地位を確立し、今やマツダの販売とイメージを代表する車種へと育って行ったことは云うまでもない。



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